フルダ『導入としての現象学』を読む:緒言①

フルダ『導入としての現象学』を読んでいく。まずは緒言から。ここでフルダは、『精神現象学』が後期体系との関わりの中でどう受容されていたかを振り返りつつ、このテーマがどのような哲学的意義を持つかを説明している

 

当時の『現象学』受容

どう受容されていたか。60年代当時の状況では、『精神現象学』が導入として理解されることはほとんどなかった。これは、第一に出版事情やヘーゲルの構想変化などのゆえに『現象学』はもはや体系的統一性を持つ著作ではないと考えられていたから、第二にそうした体系的著作の欠如にもかかわらず『現象学』は内容豊かな哲学的著作として理解され、「現象学的に、存在論的に、実存哲学的に、そしてマルクス主義的にそれぞれなりに了解されてしまった」からである。哲学の「端緒」ないしは哲学の「導入」という主題自体は、フッサールやナトルプ、ハイデガーなどによって再び提起されていたけれども、ヘーゲル哲学における「端緒」の問題、とりわけ「導入であることが言及されている『現象学』が、円環として完結していると表明される「論理学」に対して、その端緒を提供するという機能を持っているのかどうか」ということは十分に論じ尽くされていない。(pp.1-5)

フルダはこのことを議論していくわけだが、このことは、ヘーゲル解釈のみならず哲学の根拠づけという哲学的問題と関わっている。すなわち、ヘーゲルの「論理学」のようなあらゆる知の基底にある体系はを別のもの、つまりこの論理学に基づいて根拠づけられているはずのものによって根拠づけられることはできない。しかし人は「ピストルから打ち出されたように、直接絶対知から始めることはできない」以上、この論理学に対する積極的な認識根拠がなくてはならない。こうして、体系の完全性を毀損させない仕方でその体系を獲得する仕方、すなわち体系を根拠づけるわけではないがその認識根拠を与えるという「導入」というテーマが考えられることになる(pp. 5-7)

 

ヘーゲル学派の導入論

ところで、より古い19世紀の文献には導入問題に関する議論が見つかる。ヘーゲルの学徒だった人々のうちのほとんどは後期体系のほうを重視し導入問題を取り扱わず、例えばミシュレは『現象学』の影響を受けるガーブラー、ヒンリクスは『現象学』の立場に留まっていると批判した。しかし、この時代にはいくつかの「導入」に関する見解が提出されていた。第一に、「予備学的解釈」とも言うべき、論理学は体系それ自身の客観的端緒を備えているが、『現象学』は主観的な端緒となるという見解である(ローゼンクランツによる)。第二に、先の見解が批判され、「現象学=非端緒解釈」とも言うべき、論理学は客観的な根拠づけの端緒であると同時に主観的な認識の端緒を提供しているという見解が提示され、体系そのものは『現象学』のような体系の外から根拠づけられることはできないと考えられた(I.H.フィヒテ、ヴァイセによる)。しかしながら、これらの見解はどちらも、体系の客観的な根拠づけや体系の自己根拠づけという問題と、体系の端緒を主観的に認識することという問題を曖昧に区別したままで、しかも十分な解釈なく党派的に主張されていた(この部分は難しすぎてよく理解できなかった)。(pp.7-12)