ディルタイ「哲学の本質」序論

 タイトルに惹かれてヴィルヘルム=ディルタイの「哲学の本質」(『ディルタイ全集 第四巻』2010年、法政大学出版局)を開いてみたら、これまで読みたいとうっすら思っていたことが書かれていたので紹介する。ちなみに私はディルタイについてほとんど知らないし、この論文の成立事情もわからない。

 

 この論文のはじめの段落では次のように書かれている。

 「われわれは、歴史の流れのなかで諸民族内で数多く生まれた精神的産物を、哲学という一般的観念にまとめてしまう傾向にある。こうした傾向にもとづいて、言葉の慣用に従って哲学、あるいは哲学的なものと名づけられた、個々の事態を通じて共通のものが抽象的な決まり文句で表現されるとき、哲学という概念が生じてくる。もしも哲学という概念がその本質を適切に表現しているならば、この概念は完璧に仕上げられているはずである。〔そしてもしも〕このような哲学の本質概念があるとすれば、その概念は個々の哲学体系すべてが生じてくるときに働く形成法則を表現しているだろう。しかも〔そうであれば〕、哲学体系に組み込まれた個々の事実のあいだのさまざまな類縁関係が、哲学の本質概念から明らかになるだろう。」(同書, p. 666)

 引用前半部でディルタイが指摘しているのはごく単純なことである。哲学の教科書をひらけば様々な人の「哲学」が紹介されているが、それはその教科書の著者を含めた多くの先人たちが、「だれそれのやっていることは哲学だ/哲学的だ」という形でそこで紹介されている人の「精神的産物」に「哲学」という名前を与えてきたからである。こうしたことの積み重ねで、いまや私たちは「哲学」という概念を手にしている。

 ところで、後半部で言われているように、もし哲学の本質というものがあるとして、この概念がその哲学の本質なるものを適切に言い当てているとしたら、逆にこの哲学という一般概念から、個々の「哲学」のインスタンスについて正確に論じることができるし、「哲学」インスタンスがいかにして生じてきたかについての一般法則も明らかになるだろう。こうした記述からは、哲学史を知悉するディルタイ自身が、いかなるしかたで諸々の哲学を評価し、自分自身どのようなしかたで哲学を遂行していけばよいのかについて考えを巡らせていることが伺える。

 とはいえもちろん、ここには大きな難点があることはディルタイ自身が重々承知している。引用ののちにすぐ言われるように、こうした課題が解決されるのは、「われわれが哲学とか哲学的とかいう名称で呼んでいるものには、実際に、先に述べた一般的事態が含まれているという」ことが前提されているときのみであり、彼自身「これほど厳格な意味で、哲学の本質について語ることができるのか」と自問する(p.666-7)。

 ひょっとすると、「哲学や哲学的という名称は、時代や場所に応じてかなりたくさんの異なった意味を含んでいる」ので、「ギリシャ人が初めて作り上げた哲学という美しい言葉」が実際には哲学ではないものに割り当てられてしまったということがあるかもしれない(p.667)。ここでディルタイは、哲学という名称で人々が考えていたものとして、「さまざまな個別科学の基礎づけ」「それらの個別科学の連関を......導き出すという課題」「内的経験の学問」「生き方に関する教え」「普遍妥当的な価値についての学問」を挙げている(同)。これらの課題意識を有する歴史上の試みを私たちは確かに「哲学」と呼んでいるが、ではなぜそれらがすべて「哲学」と呼ばれているのかを説明しようと困ってしまうだろう。

 このようなわけで、私たちがすでに使えてしまっている「哲学」という概念って一体なんなのだろうか、という疑問が生じてしまった。なんであれある概念の内実を解明しようとときにはいつもそうだが、この概念は多様なものに適用されるためにこの問いに答えるのは難しい。

 こうしたときにディルタイが提案するアプローチとは、それじゃあ「哲学そのものの歴史」に目を向けようというものである(p. 668)。哲学の歴史において、人々が先行する「哲学」に対して全く異なるプロジェクトを提示しながらも、自らが提示するそれを「哲学」と呼んでいた。こうした哲学者たちが提出してきた「哲学」についての個々の概念規定の流れを追跡することで、「哲学」概念そのものについてもっとよくわかるんじゃないか、という提案をディルタイは行なっているのである。

 

 以上の立論に対して共感するとともに、ディルタイという人はごく当たり前のことをしっかりと言ってくれる人だなと思う。この議論を読んでから、私は哲学史に対してより自覚的に関心を抱くようになった。