フルダ『導入としての現象学』を読む:準備

フルダ『導入としての現象学』(久保・高山訳、法政大学出版局、2002年)を読んでいく。

元々ヘーゲルの導入論に関心があったが、ハードルの高さから最近はあまり勉強をしていなかった。いい加減フルダ氏の本くらいは読破したいと思ったのでメモがてらに読んでいこう。

 

まずこの本について若干のチップスを。

・この本の原題は“Das Problem diner Einleitung in Hegels Wissenschaft der Logik”で、タイトルが示す通りヘーゲルの「論理学」(ただし有名な大論理学・小論理学ではなく、それ以前のイエナ期論理学)への「導入」としての『精神現象学』の機能を論じるもの。

・著者Hans Friedrich Fuldaの博士論文。1965年に出版され、『現象学』の導入論にとってエポックメイキングな古典的研究である。

・60年代にFuldaとPöggelerとの間で『現象学』の体系的統一性についての論争が行われており、この本はこのような当時盛り上がっていたヘーゲル体系に対する『現象学』の位置付けについての研究(ただしFuldaの研究履歴を正確には調べていないので確かではない)。

・類似する研究書としては、Forster“Hegel‘s Idea of a Phenomenology of Spirit”(1998)、原崎ヘーゲル精神現象学」試論:埋もれた体系構想』(1994)、細川『ヘーゲル現象学の理念』(2002)が挙げられる。出版年を見る通り2000年代に入る頃くらいまで「導入論」は論じられるテーマだったが、最近は色々としたハードルの高さから下火になっている。唯一(?)飯泉氏が継続して研究しており、その博士論文の成果発表が待たれる。

・そもそも「導入論」とは何か。それは哲学体系という一つの完成した学問システムをどのようにして獲得したらよいかということを問うものである。優れた学問的認識というものが本当にあるとしても、人は初めからそのような卓越した認識を初めから備えていない。医者になるためには医者になる訓練が必要であるし、大学数学を学ぶためには義務教育の中で厳密には誤っているがしかし入門的であるような算数・数学を学ばないといけない。このような、真なる認識を手に入れていない者がそれを得るために必要とする手続きを「導入」と考えてよい。この「導入」と名付けられるプログラムの類似物は、しばしば哲学史上に現れてきた。デカルトは真なる知識を獲得するために所与の知識を一度すべて方法的に懐疑し、カントは自然形而上学・道徳形而上学の体系を展開するに先立って「批判」という理性の自己吟味を遂行した。他にも、フッサールの超越論哲学に先立つ方法としての超越論的現象学ハイデガーの基礎存在論を通じた「問いの仕上げ」といったものが挙げられるだろうか。往々にして、「体系としての哲学」という野心的なプログラムには、体系への導入ないしは体系構成論が先立っており、むしろ後者の方が有名になっているということも少なくない。同書は、体系癖で有名なヘーゲルが、どのようにして自身の体系を正当化しているのかという、ヘーゲルの導入論を論じているものである。

 

思ったよりチップスが長くなってしまって、読書の時間がなくなったので一旦やめにする。